「伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)」「類聚既験抄(るいじゅうきげんしょう)」「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」など複数の文献に登場する立山開山伝説。
このなかで最も古い時代、鎌倉時代初頭に著された「伊呂波字類抄」は、開山の祖を越中守佐伯宿禰有若であると伝えています。
しかし一方で、鎌倉時代末期に著された「類聚既験抄」は、錫杖開山の祖を無名の狩人とし、さらに江戸時代に著された「和漢三才図会」には有若の子・有頼としていて、それぞれに齟齬が生まれているようです。
立山信仰を布教した立山山麓芦峅寺の衆徒社人たちが、全国の信者に語った法話は「和漢三才図会」に倣ったものでした。
そのあらましは、熊に身をやつした阿弥陀如来が有頼の前に現れ立山開山を示唆した、というものです。この話は広く語り継がれ、現在、わたしたちの多くが聞き知るところとなっています。
万葉の時代より、神のおわす尊い山として崇められてきた立山。
人々は土足で踏み登ることを慎み、山麓に社を設けてただ伏し拝むばかりでした。
国守として越中に赴任してきた歌人、大伴家持が詠んだ「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」をはじめとする短歌や越の国の勝景をめでた長歌・立山賦など、 「万葉集」に収められた数々の歌の中からも、その神々しさがひしひしと伝わってきます。
人々は土足で踏み登ることを慎み、山麓に社を設けてただ伏し拝むばかりでした。
国守として越中に赴任してきた歌人、大伴家持が詠んだ「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」をはじめとする短歌や越の国の勝景をめでた長歌・立山賦など、 「万葉集」に収められた数々の歌の中からも、その神々しさがひしひしと伝わってきます。
やがて時代は平安を迎え、天台密教や浄土教の影響を受けながら雄山神社(山頂の峯本社・芦峅寺の根本中宮・岩峅寺の前立社壇の3社)を基軸に独特の信仰体系を確立してきた立山は、
神から特別な力を賜る修験道の一大興隆地として脚光を浴びました。当時、人々は白衣にすげ笠、わらじ履き、金剛杖という出で立ちで、精神を統一ののち真理を体得する[立山禅定]
を行ったと言います。誰もが、熱湯噴き出す地獄谷に奈落の世界を見、そして、安寧待つ極楽浄土に夢を馳せたのです。
江戸時代になると、加賀藩は立山信仰を厚く保護し、峯本社の修理・造営、山中の宿泊施設や橋の架け替えなどを積極的に行いました。
また、芦峅寺・岩峅寺の両村落の衆人たちは信仰布教のため、立山御絵伝の掛図(立山曼荼羅)を掲げて、女人往生を叶える布橋大灌頂や、万物の母神であり冥府の主宰神である姥尊など、 独自の特徴をふんだんに盛り込みながら立山信仰を説いてまわりました。
また、芦峅寺・岩峅寺の両村落の衆人たちは信仰布教のため、立山御絵伝の掛図(立山曼荼羅)を掲げて、女人往生を叶える布橋大灌頂や、万物の母神であり冥府の主宰神である姥尊など、 独自の特徴をふんだんに盛り込みながら立山信仰を説いてまわりました。
その範囲は越中・加賀・能登の近隣にとどまらず、北は陸奥南は九州に至るまで全国に及んだと言います。
このような衆人たちの努力の甲斐あって、立山信仰は各地に根を下ろし、修験者・庶民の別なく、多くの人が立山に登拝するようになったそうです。
明治新政府が発した神仏分離令によって廃仏毀釈の気運が高まり、連日、各地で仏堂等の破壊・焼却が繰り返されました。
神と仏が渾然一体となって作り上げる立山信仰もまた、この廃仏毀釈運動にその根本を激しく揺さぶられたのです。
立山権現の称号の廃止、仏像・仏具の散逸、さらに、擬死再生の儀式である布橋大灌頂や、芦峅衆徒による全国各地への布教活動廃絶など…。 これをきっかけとして、立山における宗教色は一気に薄れ、目の前に広がる雄大な景観をあるがままに体感しようとする気風が生まれました。
立山権現の称号の廃止、仏像・仏具の散逸、さらに、擬死再生の儀式である布橋大灌頂や、芦峅衆徒による全国各地への布教活動廃絶など…。 これをきっかけとして、立山における宗教色は一気に薄れ、目の前に広がる雄大な景観をあるがままに体感しようとする気風が生まれました。
かつて加賀藩によって通行を禁止されていたルートも解禁となって、ウォルター・ウエストンなどイギリスの登山愛好家たちが続々と足を踏み入れました。
もちろん日本人の訪れも多く、冠松次郎ら近代登山のパイオニアたちが次々とすばらしい登頂記録を打ち立てています。
また、長らく続いてきた女人禁制も明治5年3月に解かれ、女性の登山が活発に行われるようになりました。








