標高3,000m級の峰々が連なる、北アルプスを貫く山岳観光ルート。大自然のダイナミズムを存分にお楽しみください。

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アルペンルート、その構想と歴史 - 人跡未踏の深山から一大観光地への変遷

確固たる協力体制のもと進んだ開発事業

昭和30年代の電源開発工事に付随する、複数の資材運搬ルートの開設をきっかけとし、「富山と信濃大町を結ぶ道路建設を核とした、立山・黒部・有峰地区における一大循環ルートを構築すべき」 との社会的要請が次第に高まってきました。これを受け、昭和35年5月、富山県・立山開発鉄道・北陸電力・関西電力の 4社は立山黒部有峰開発会社(TKA)を設立。 一帯の観光産業開発計画調査を実行して、それぞれに開発地域を振り分けました。この計画において最も重要とされた室堂から黒部ダムを結ぶ区間は、関係自治体、電力会社などの協力を仰ぎながら、 昭和39年12月に新しく設立された立山黒部貫光会社(TKK)が請け負うこととなりました。

昭和41年春、立山黒部貫光会社によって雄山直下を貫く立山トンネルの掘削工事がはじまります。 集中豪雨による輸送ルートの崩壊、50mに渡る破砕帯の出現、毎分63トンにも及ぶ湧水など、多くの障害に行く手を阻まれて工事は難航し、44年開通の予定は大幅な遅れを見せました。
しかし、室堂トンネルなど他トンネルの貫通に作業員の士気は高まり、バンザイの声が鳴り響くなか、立山トンネルも無事開通の日を迎えることができたのです。 昭和46年6月1日、立山トンネルバス・立山ロープウェイ・全線地下式黒部ケーブルカーの完成をもって、ついに立山黒部アルペンルートの全線開通が実現。
47年には、立山貫光ターミナル株式会社が、宿泊と駅舎および公共サービス部門を包含したターミナルビルを建設し、ここに立山黒部アルペンルートの全容が整いました。
全線開通以後、立山一帯は人跡未踏の地から国内有数の観光地に姿を変えました。毎年100万人を超える観光客が訪れ、四季を通じて立山の大自然を楽しんでいます。
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山岳観光時代の到来 - 電源開発と立山黒部

立山を切り開いた先人の飽くなき挑戦
大正9年、工業県への発展を目指し一丸となった富山県は、第17代東園(ひがしその)知事のもと積極的な電源開発を推進しました。 大正10年から昭和8年までのあいだ、立山水系を利用した発電所を全部で7つ建設し、県の工業化に大いに貢献したのです。 また、この発電所建設にともなって鉄道の敷設も計画されました。これは立山の登山遊覧をも視野に入れており、後の立山黒部アルペンルートの端緒となったものです。 全線開通へ向け鉄道建設事業はその後も展開されましたが、戦争の拡大により、立山の開発は停滞してしまいます。
戦後、開発事業は再び活発な動きを見せはじめます。北陸電力が常願寺川水系の、関西電力が黒部川水系の電源開発を請け負い、 さらに立山山岳地帯の開発計画の一環として富山地鉄・関西電力・北陸電力参画のもと、立山開発鉄道会社が設立されました。 富山県が道路を建設するのにあわせて立山開発鉄道会社は運輸事業ならびに宿泊事業を整備し、ここに本格的な開発が実現したのです。
昭和29年にはケーブルカーが開通、31年にはバス道路が弥陀ケ原手前の追分まで延び、人々は気軽に立山の雄大な自然を体感することができるようになりました。
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黒部ダム建設までの道のり - 荒ぶる自然に勇敢に立ち向かった工夫たちの記録

幾多の困難を越え完成した「クロヨン」

経済の本格的な復興を迎えた戦後日本は、深刻なエネルギー不足に悩まされていました。特に関西地方の長期間に渡る電力使用制限は大きな社会問題となり、 大量の電力を供給するすみやかなエネルギー開発の必要性が、声高に叫ばれるようになったのです。 当時の火力発電は出力調整に時間がかかり、刻々と変化する電力需要にすばやく対応できないという欠点がありました。 これを補うものとして水力発電所の建設が提案され、建設場所として豊かな水量そして大きな落差を持つ黒部川を有する、黒部峡谷にスポットが当てられました。 こうして、「世紀の大事業」とうたわれた関西電力による「クロヨン」プロジェクトは幕を開けたのです。

綿密な土地調査を経て、昭和31年、黒部ダムはようやく着工を迎えます。 まず最初に、黒部ダム建設地点までの輸送路の要を担う大町トンネルの開通が急務となりました。それまでの日進記録を次々と塗り替えるほど掘削作業は順調に進みましたが、 昭和32年5月1日、トンネル入り口から約2,600m地点で毎秒660リットルの地下水と大量な土砂が噴出。なんと破砕帯にぶつかったのです。
プロジェクトチームはもてる知識と経験を結集し、対応策を連日議論しました。そのかいあって工事は再開され、7ヶ月に渡る苦闘の末、ようやく破砕帯を突破することができました。 その約半年後の昭和33年5月、ついに大町トンネルは開通、資材搬入ルートが確保されると、いよいよ黒部ダムの建設が本格化します。
コンクリート打設作業は夜を徹して行われ、黒部ダムは驚異的なスピードでその全容を現そうとしていました。 そして昭和38年5月、めでたく完成を見たのです。7年の歳月と513億円の工費、そして1,000万人の人手を要した、実に壮大なプロジェクトが終わりを告げた瞬間でした。
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