立山黒部アルペンルート

立山黒部の開発と観光

アルペンルートの構想と開通の歴史

立山山岳地帯の観光開発は、昭和27年に富山県が総合開発計画の中で基本計画を策定したことから始まりました。 電源開発工事に付随する複数の資材運搬ルートの開設にあわせ、「富山と信濃大町を結ぶ道路建設を核とした、立山・黒部・有峰地区における一大循環ルートの構築」が考案され、これを受けた富山県・立山開発鉄道・北陸電力・関西電力の 4社が協同して立山黒部有峰開発会社(TKA)を設立。 一帯の観光産業開発計画調査を行いました。

昭和33年までに、立山ケーブルカーや立山高原バス道路が完成し、関西電力が黒部ダム建設の資材運搬などのために建設を進めていた大町トンネル(関電トンネル)も開通。5年後には、立山黒部貫光株式会社が設立され、富山と長野を結ぶ全線自動車道路を目標として計画が進められました。

昭和41年春には、立山黒部貫光株式会社により、雄山直下を貫く立山トンネルの掘削工事が始まります。
集中豪雨による運送ルートの崩壊や、50mにも渡る破砕帯、毎分63トンにも及ぶ湧水など、多くの障害に阻まれ、工事は難航します。また、自然保護団体による反対により全線自動車道路をあきらめ、大観峰から黒部平まではロープウェイ、黒部平から黒部湖まではケーブルカーで移動する形に計画を一部変更。
幾多の困難を乗り越えながら、予定より2年遅れの昭和46年6月、立山トンネルバス・立山ロープウェイ・全線地下式黒部ケーブルカーの完成をもって、ついに立山黒部アルペンルートの全線開通が実現しました。 

全線開通の翌年、昭和47年には宿泊と駅舎など公共サービス部門を包括したターミナルビルを建設し、ここに立山黒部アルペンルートの全容が整います。これにより、立山一帯は人跡未踏の地から国内有数の観光地へと姿を変えました。今日では、毎年100万人を超える観光客が訪れ、四季を通じて立山の大自然を楽しめる一大観光地となりました。

山岳観光時代の到来

大正9年、工業の発展を目指し一丸となった富山県は、第17代東園(ひがしその)知事のもと積極的な電源開発を推進しました。
大正10年から昭和8年の間に、立山水系を利用した発電所を全部で7つ建設、これにともなう鉄道の敷設も計画されました。これが後の立山黒部アルペンルートの端緒となったといわれています。
この時、全線開通へ向けた鉄道建設事業が展開されました。しかし、激化していく戦争により、立山の開発は一時停滞することとなります。

開発事業が再び活発な動きを見せ始めたのは戦後でした。北陸電力が常願寺川水系、関西電力が黒部川水系の電源開発を請け負い、さらに立山山岳地帯の開発計画の一環として富山地鉄・関西電力・北陸電力参画のもと、立山開発鉄道会社を設立。
富山県が道路を建設するのにあわせて立山開発鉄道会社は運輸事業や宿泊事業を整備し、本格的な開発が実現したのです。昭和29年には立山ケーブルカーが開通、31年にはバス道路が弥陀ケ原手前の追分まで延び、人々は立山の雄大な自然を気軽に楽しめるようになりました。 

幾多の困難を越え完成した黒部ダム建設

経済の本格的な復興を迎えた戦後日本は、深刻なエネルギー不足に悩まされていました。特に関西地方の長期間に渡る電力使用制限は大きな社会問題となり、大量の電力供給を補う大規模な水力発電所の建設が提案されました。建設場所としてスポットが当てられたのは、豊かな水量と大きな落差を持つ黒部川を有する黒部峡谷。世紀の大事業とうたわれる黒部第四ダム建設はこうしてはじまりました。

当初、掘削作業は順調に進みましたが、トンネル入り口から約2,600m地点にさしかかったところで、毎秒660リットルの地下水と大量な土砂が噴出する破砕帯にぶつりました。この破砕帯突破は、黒部ダム建設の中でも一番の難工事となりました。プロジェクトチームはもてる知識と経験を結集し、大勢の死傷者を出しながら7ヶ月にわたる苦闘の末にようやく破砕帯を突破。その半年後の昭和33年5月には、ついに大町トンネルが開通、資材搬入ルートが確保されると黒部ダムの建設は一気に本格化しました。

コンクリート打設作業は夜を徹して行われ、黒部ダムは驚異的なスピードでその全容を現していきました。 そして昭和38年5月、7年の歳月と513億円の工費、そしてのべ1,000万人の人手を要した壮大なプロジェクトは、無事完遂されました。